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初恋を弔う その4 [日ごろのこと]

 週末の土曜日、再び失恋の地の街を訪れ、そして18年前、最後にデートをした洋食屋に行ってみた。私は夕方遅く、予約もなしにふらりと訪れたのもかかわらず入店を許された。そして2階の奥の壁際の、当時私が座った席に案内された。偶然だがまさにそこであった。

 店は旧倉庫を改造して作られている。尋ねると40年の営業だという。壁はその倉庫の壁だったのである。彼女は壁を背にして座り、私は対角線上に座った。

 私は彼女から促され、注文するように言われた。何を食べたのか憶えていない。食欲もあまりなかった。当時私の方は大学生だったから、こうした高級な店で食べたことはなかった。直前に2人で行ったビアホールで、彼女に離ればなれになることに関して泣かれ、そして私は彼女から強く言われ、そのためにまだ動揺していた。

 再訪で私は地元産ワインと海産物を頼んだ。おいしい。そして老若のカップルばかりの店内を見渡した。私は当時、彼女と何を話したのか思い起こそうとした。彼女はめげている私を少し励ますようなことを言った。私は彼女に(私がいなくても)悩みのある仕事は進むかと尋ねたようである。そして彼女は前向きなことを言い、少しだけ笑顔が戻ったような気がした。

 彼女は私との付き合いで、冷静だったり、無表情で暗い顔をしたり、姉のような表情をしたり、恥ずかしがって顔を赤らめたり、甘えたりといろいろな表情を見せた。彼女は化粧をしないとそばかすが目立った。私は可愛らしいと思った。少女漫画の登場人物のような清純さも感じた。化粧は段々とうまくなっていったようである。

 もちろん最後のデートでは化粧をしていた。子どもっぽかったのか、あるいは年下の男にどういう顔を見せればいいのか、戸惑っていなのかもしれない。もちろん私も子どもだったろう。

 そんなふうにあれこれ考えていると、小柄だが精悍そうなマスターが私に話しかけた。「独りで寂しいじゃない?」。私は少し間を置いて、「いや、あ…」と応えた。私の相手はファントム、つまり目に見えない元彼女である。言葉にならなかった。マスターは私からお代わりの注文を取ると、再び忙しそうに仕事に戻った。若い店員がよく働いている。

 壁には今、マチスの大きなポスターが飾られている。当時はなかっただろう。ポスターの中で5人の裸婦が輪になって踊っていた。 

 彼女が当時座ってた席にも座りたいと思った。しかし席が指定されているから勝手に移動できない。私は困っていた。すると再びマスターが来て、席を隣にずれてくれと言った。私はすぐに移動した。マスターは「というのは、ここと反対の奥にいるカップルの男の子がこれからプロポーズするんです。プロポーズの後、照明を落とすんですが、そのコントローラーがここにあるんです」と説明してくれた。私が座る席のすぐ隣は料理のためのエレベーターで、そのエレベーターのところにコントローラーがあった。

 マスターがずれてくれと言ってくれたので、私は当時彼女が座っていた席に座れた。その席から離れた、プロポーズを申し込まれ、申し込みを受けるというカップルを見た。線が細そうなメガネ男子と、あまりにこにこしない女性の組み合わせであった。

 そして私は自分の当時の彼女が何を考えていたのか、想像してみた。彼女は私の右半分の表情を見ていたことが分かった。彼女が何を考えていたのか、今となっては分からない。少しは期待したのか、やはり年下の男は当てにならないと思ったのか、結婚を少しは想像したのか、そんなの無理と考えたのか。私は手元のシステム手帳に何も記すことはできなかった。

 マスターがエレベーターからホールケーキを取り出した。「自分のことじゃないけど、緊張するねえ!」と私に話しかけた。私は「いや、店の人も大変ですね」と応えた。「きょうはあの女性の誕生日なんだ」という。ホールケーキはそのためなのだろう。しかし20,30分たってもプロポーズは始まらない。いや席が遠過ぎて、よく状況は判らない。

 少なくとも女性のほうは上着を着始め、店を出る準備をしていた。しかし 男子のほうがいったん席を離れ1階に下り、そして花束を持って、そしてそれを背後に隠しながら、にやにやしながら上がってきた。女性にだけほほえむという状態ではなく、周囲ににやにやした表情を見せてという状態である。そんなんでプロポーズになるのか奇妙に思った。男子はひざまずき、花束を渡してプロポーズがされたようである。店の人が撮影班になりその様子をスマホで撮影していた。女性のほうはずっと冷静だったようである。

 マスターが少し大きな声で「奥にいるカップルの男性がプロポーズしました」と店内にアナウンスした。他の客たちは拍手した。私はマスターが「そして女性はプロポーズを受けました」とまでアナウンスしなかったことが気になった。もちろん状況からyesと言ったのだろう。マスターに尋ねると成就したことがはっきり分かった。

 照明が落とされ、誕生日ソングとなった。ホールケーキが切られ、他の客にもふるまわれた。私のところにも大きなケーキが届いた。カップルはしばらくすると、花束を持って去っていた。女性は冷静な感じだ。他の客は拍手で送り出した。

 マスターはほっとしたのか、「喉が渇いた」といい、エレベーターからビールを取り出した。「御苦労さまです」と私は言った。「緊張した」。「ここではプロポーズは多いのですか?」「いや何件もあるよ。ここで結婚式もしたことがあるけど、(結婚式には手狭なので)6組までしか客は招けないからね」などと会話した。

 余計なこととは思ったが、「実は私は18年前、ちょうどこの席で最後のデートをして、そしてまだ独身なんですよ」と話した。マスターは「私も40歳の時、女房に〝私ももう30歳になるの〟と言われ、どきっとしましてね」と言う。人間にはさまざまな事情があり、そしてマスターも結婚が遅かったようである。マスターは経営に成功して、そして健康そうで、そして年齢より若く見える。私は「まだ今いませんが次は向こうに(プロポーズが先ほど成就した席で)座りますから、その時は協力して下さい」と言って名刺を渡した。「いいですよ」という返事だった。

 偶然が幾つも続いて、何だか天に励まされたような気持ちになった。やせ我慢でも空元気でもないものが湧いたような気がした。あの美しい、ファントムは去っただろうか。美しくてそしてたまに思い出すことがあっても、色あせれば私は次に進めるのだ。その晩、初恋は弔うことができただろうか。
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