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去る、去られる [日ごろのこと]

 詳しく記さないが“定期的な運動”のグループから追い出されるようなことになってしまった。運動というのはもちろんexcerciseのことである。

 追い出すには理由が正当でなく、理由とするには社会通念に反し、理不尽であった。法的にも問題なく、仮に規則があるのかもしれないがその規則が示されなかった。怒鳴りだされた。しかしいちおう反論した。証拠も提示した。反論は効果がなかった。理由はどうあれ、追い出すことを決めているのだから結果を甘受するしかない。

 追い出されたといっても、月謝を支払っているのだから、メンバーフィーが受領されず、またサービスが利用できないということにすぎない。いわば消費者的な立場にいる。

 別のことで思い返すと、10年以上前、excerciseではないボランティア的グループに参加していた。あるメンバーが突然、何度か怒鳴り出すので、怒鳴り声を聞くのが嫌で逃げ出したことがある。代表者に少なくとも2回は慰留されたのだが、代表者がこいつにやらせているのではないかと疑ってしまい、とうとう参加しなくなった。このときもメンバーフィーを支払っていた。

 組織のカルチャーが変化するとき、そぐわないメンバーは不要になる。カルチャーが進歩すればいいのだが、退歩することがある。私は進歩させたかどうかわからないが、少なくとも努力しており、参加率もほとんど1番で頑張ったのにな…と虚しくなる。進歩させようとしないとき、むしろ退歩させようとしているとき、自分の努力の方向と集団の方向が逆さになる。

 私の努力はもはや必要ないとされたのだろう。もう私がやる必要はないとされたのである。こうなると天意である。

 ボランティア的グループを辞めた後、私は個人としての生活はずっと良くなった。複数の資格も取れた。あのまま居続けるとこうしたこともなかっただろう。一方、ボランティア的グループは分裂した。訴訟も生じたらしい。しかしそのときは預かり知らぬ立場であった。

 今回もかなり似ている。冷静に考えてみると、メンバーの平均参加率は20%で、私は原則としてこれまで休まなかった。相当に努力していた。

 追い出されるのは互いの水準が合わなくなったというだけであり、悲しむべきことではない。今後何か隠れていた原因でトラブルが発生して、私が巻き込まれないために天意が働いているのかもしれない。

 私が感じるには何か、excerciseのグループだから、死傷事故が発生するのかもしれない。仲間はかつて骨折して入院した。代表者の方針でスポーツ団体保険に加入していないから、訴訟になりかねない。こうしたリスクについて代表者は耳を貸さない。参加率が低いのに思いついたように飛び入りして、無茶をする者が多い。

 仮に死傷事故が発生し、巻き込まれて、例えば私個人として安全配慮義務違反を問われたら大変である。代表者は私に責任を押し付けるかもしれない。そんなことになる前に追い出されたほうがよほどましである。
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