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「調査報道」あれこれ [社会を考える]

 「マスコミは調査報道をがんばってやれ」などという論調をみかけるが,私は新聞社に入ったとき,「キミは一般的にはこの仕事に向かないが,調査報道のためにはいろいろな性格の人間が必要だ」と言われて,その方面をやってみた。どういうものか説明してみよう。

 「調査報道」とは,ニュースを調べ上げ,証拠を集め,マスコミや記者の責任において,発表することである。そんなの当たり前じゃないかと思う人も多いが,マスコミで流れている情報のほとんど(ある調査では98パーセントほど)は発表報道である。外交問題は外務省発表,事件は警察発表,公判は裁判所発表や検察庁発表などである。新聞やテレビ番組の内容がとてもよく似ているのはこのためである。

 発表そのものが間違っている場合,各社一斉に間違う。報道された人間など当事者が抗議するとマスコミは「当局発表が間違っていたせいだ」と言い訳する。さらに「他社でも間違った報道だった」と付け加えるのを忘れない。そのため関係当局に抗議すると「マスコミが勝手に間違った」というふうに言われる。責任の所在があいまいになる。ただし,毎回こういうことをしていて,意外にこの種の防御に対しての備えがマスコミ側で甘いので,ちゃんとそのへんを分かっている弁護士などが調べ上げて損害賠償請求をすると,金銭や謝罪を取れる場合がある。

 発表報道はこのようにお手軽で,人件費をかけなくてもよい。その反対に,調査報道はコストがかかる。私がやっていたときは,おそらく5-6倍はかかっている。具体的に金銭というよりも,調査に時間がかかるのである。毎日1本記事を出していたとすると,1週間以上も1本も記事が出ない。上司のほうからみると「何やってんだ」ということになる。そこで私の場合は休日を使ってやっていた。ほとんど趣味の世界になってくる。記事を出すと,「問題を起こすな」「サツは動いていないんだろ(=警察は発表していないんじゃないか)」などと怒鳴りつけられ,記事そのものを否定される。私の場合は採用時に「調査報道」を命じられた関係があって,いろいろと説得したのだが,ヤクザのような上司に説明するのは大変であった。さんざん下積み仕事をした上で,その見返りに上司に記事を掲載してもらうという取引をしたことも多い。何本かの記事は握りつぶされた。

 新聞社は採用時に「調査報道」などをやれと新人に言うけれども,実際には上司の無理解があって,できない場合が多い。したがって,新人時代に諦めてしまうという構図になる。新人時代に経験しないと,その後の職業生活ではやらない。今のマスコミに調査報道がないのはそのためである。

 しかし,仕事の楽しさを言うと,調査報道は調べ上げる楽しさというものがあって,これは面白いと思ったときが多かった。私の場合は外国人人権,環境,教育関係についていくつか報道した。

 調査報道は「みんな知っているけれどもでも誰も書かない」という公然の秘密的なものが対象になることが多い。たとえば「うちの議員さんたちはいつも怠けていて給料泥棒だ」というものである。これについては議員の一般質問回数を調べ上げて表にする。議会が開かれるといつも一般質問に立つ議員がいるかと思うと,任期の間1回も一般質問をしない議員もいる。やらない議員に事情を尋ねると「後輩に一般質問の練習をさせるため(そのため私はやらない)」などというアホな理由が返ってくるので,全部書いてしまう。これについては議会からものすごい抗議が来た。でも記事はどこも間違っていないので仕方がない。反省が必要である。この種の調査報道はどこの議会でも毎年やってみてもいいと思うが(たとえば国会でも),結局やらないことになる。どうしてかというと,議員が困るからである。議員には能力的な問題があり,行政側に「質問を考えてもらう」ような人もいる。そういう人が議員になっていることはある種社会問題なので,選挙に落ちてしまう。落ちた場合に誰が責任を取るのかという問題が出てくる。本当はその議員の責任なのだが,何事も人のせいにしたがるのが,世の常である。

 米国などはこの種の調査報道が盛んで,「政府の関係機関とマフィアが癒着している」などという調査報道を発表する人もいるらしい。日本などとは違って,最高度のインテリジェンスを持った人が勇気を持って,総力を挙げてやるので,非常に面白いものになる。事実を指摘して,発表されるとさすがに当事者は困る。調査報道をやる人は暗殺されることが多い。この前ネットで調べていたら,暗殺されたうえに「顔面を拳銃で2発自分で撃って自殺」などと警察発表されたという話もあった。自分で顔面を2発撃てるわけがない。こういうおそろしい結果を考えると,「命を懸けたジャーナリズム」ということになるだろう。日本でもそういうことがある。

 ジャーナリズムというよりも,より広い人生観から考えると,死ぬのはオソロシイし,もったいない。正義感と知性を追及した結果,裏世界からの復讐を受けるのはなあと思うことがある。

 いつだったかある商工会議所の人が「ゾーリンゲンの刃物は,ちょっと切れないように作ってある」と私にアドバイスをしてくれた人がいた。つまり銘柄物の刃物は,少し鈍くあるのが丁度よいというのだ。調査報道も鋭すぎるとありがたみがないというのかもしれない。ほどほどである。日本的な知恵だと思った。

 調査報道は,いってみれば,不正を行っている者からみると,戦略爆撃機で爆弾を落とされているようなものである。突然に非常に大きな打撃を受ける。爆撃される方からすると,ミサイルで打ち落としたいと思うのは当然のことかもしれない。

 評論家などからは,不正とは長い付き合いとなるのだから,調査報道はもっとネチネチと陰湿にやる必要があると主張されている。佐高信などがそうである。あるいはオンブズマンのように,地味にネチネチとというのがいいのかもしれない。

 どうも私はまだ若いから,この方面についての見解は定まっていない。やはり死なないほうがよいというのは人生の真実である。


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